【勉強の哲学 来たるべきバカのために】
千葉雅也著、文藝春秋、2017
読後感が凄い。。自分を骨抜きにされたような感覚。これまで感じたことのない感覚である。
今まで自分が言語化出来なかったことを言い当ててくれた一冊であり、自分のものになりつつある(と願う)言葉たちとの共存に居心地の悪さも同時に感じているような、そんな気分で、今この感想を書いている。
東京大学で博士課程を取得後、パリ大学に渡り、フランス現代思想を学んだ著者の一冊。
本書の執筆背景としても語られているが、ドゥルーズやフーコーなど、フランスの大家たちを下地に綴られた内容であり、一言一句覚えようと思って取り掛かると、とてもではないが今の自分には読了できない。
ここでは、読書を有限化して読み進める必要がある。
「勉強の哲学とは何か」を考える思考の旅は、以下のようなメッセージから始まる。
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勉強とは、これまでの自分を失って、変身することである。
だが人はおそらく、変身を恐れるから勉強を恐れている。
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勉強を「変身」と表現しその言葉の定義を読者と共有しようとする著者の気持ちを考えると、慎重に本書を書き進め、それでいて従来の考え方の枠組みから外れるように大胆に執筆したのではないかと感じる。
第4章の「勉強を有限化する技術」の結びが本書全体に貫通する一冊だと思ったので、引用する。
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勉強のきりのなさ-深追い方向(アイロニー)と目移り方向(ユーモア)の-に打ちのめされず、ある程度で、「一応は勉強したことになる」という状態を成立させる。
情報過剰の現代においては、有限化が切実な課題です。
日々、「一応はここまでやった」を積み重ねる。ある仮固定から、新たな仮固定へと進んでいく。それが、勉強を継続するということ。だから、これは極論ですが、勉強は、どの段階でやめてしまっても、それなりに勉強したと言える。中断による仮固定。
これは、読書について、バイヤール(ピエール・バイヤール。フランスの文学研究者。『読んでいない本について堂々と語る方法』(ちくま学芸文庫、2016)の著者。鈴木注)を参照しつつ行ったことと同じです。目次を読むのだって、拾い読みだって、読書である。そもそも、完璧な通読などありえない-。
同様に、ある分野をマスターしたなんていう「勉強完了」の状態はありえません。
(中略)
中断によって、一応の勉強を成り立たせる。
どんな段階にあっても、「それなりに勉強」したのです。完璧はないのです。
しかし、中断の後に、また再開してほしい。中断と再会を繰り返してほしい。
そして、勉強を続けているもの同士の相互信頼に参加してほしい。
勉強を進めるうちに、友が必要になってくるでしょう。友は、教師よりも必要な存在です。
ノリの悪い友と、キモい友と、語りたくなる。
それこそがまさにノリであるノリ、自己目的的なノリを楽しんでいる、来たるべきバカ同士の、互いの奥底の無意味を響かせ合うような、勉強の語り合いへ。
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※アイロニーやユーモアなど、本書で独自に定義されている言葉やその言葉の位置について、ここで詳しく語る能力は私にはまだない。また、最後から近い部分にある、「ノリの悪い」や「キモい」は、本書では褒め言葉であり、勉強を進めた者への敬称でもある。
中断しつつ、それでも折を見て再会し、さまざまな勉強を横断的に進行させる。それらがつながる瞬間に勉強における享楽(または自分の欲望)を見出すことが出来る。
これこそが、多動力であると私は考える。
そして多動力は自分が意識して実践してきたことである。
そのため、本書を読んでいるうちに、自分を肯定されたような、承認されたような気持ちになった。
勉強とは何か、言葉とは何かを考える旅は非常に刺激的である。時に、自分の現在の姿を変身させてしまうだろう。
それこそ、勉強の哲学であると学んだ一冊。
#鈴木読書
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